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矢野絢子 - ニーナ(1/2)

その椅子は木で出来た丈夫な椅子
こげ茶色のクッション木彫り花模様肘掛
背もたれの両端には小さな赤い石
それはそれは美しい木の椅子だった

その椅子を作ったのは椅子職人の爺さん
曲がった腰慣れた手つき鋭い目
出来上がった椅子があんまり美しかったので
死んだ妻の名前をこっそり入れたのさ

店先に置いた椅子はすぐに客の目に留まり
やってくる客についつい爺さん「売り物じゃない」という
何人めかの客が来てしばらく話し
爺さんはついに言った「売りましょう」と

椅子は大きな屋敷の大きな広間に置かれた
毎夜止まぬ音楽と夢のようなダンスの日々
主人はいつも椅子の前に座り椅子には
いつも美しいドレスの女が腰掛けた

時は砂のように流れ屋敷は古びてゆく
主人が椅子だけを眺める日々が続いた
美しいあのドレスの女は現れなかった
音楽はやみ主人は立ち上がった
ある朝椅子はたくさんの家具とトラックに乗った

椅子は海を渡る旅をした
揺れる揺れる船の底荒い波の音
夜更けにかすかに聞こえるピアノのワルツ
少しだけくたびれた椅子を乗せて

旅を終えた椅子を一人暮らしの老婦人の元へ
いつもきちんとした身なりパンを上手に焼く
飼っている猫は灰色の老猫で
椅子の上に丸まって婦人の話をよく聞いた

話はもっぱら夫の話
もう十年もあちこち旅をしてる
愛しい人の手紙を少女のように猫に聞かせる

婦人の足が悪くなり日がなベッドで横になる
傍らにはいつも椅子と灰色猫
何度も同じ手紙を大事に大事に読み返す

よく晴れた昼下がり眠る婦人の枕元
一人の男が現れた
古びた椅子に座り古びた婦人の手を握り
そして眠る婦人にそっと口付けしたのさ
猫はナァナァないていた

古道具屋の暗い部屋でも椅子は人の目を引いた
めがね主人は丁寧に椅子の傷を取りがたを直した
クッションはここで赤い茶色に張り替えられた
よく笑う若い夫婦は一目で椅子に目をつけた

椅子は始めたばかりの小さなカフェの窓辺
若い夫婦はよく働き椅子はいつもピカピカ
その年妻は子供を宿し
夫婦は抱き合って喜んだ

何度も壊れ直された足はちび肘掛は擦り切れたが
小さな赤い石はきちんと二つ光ってる
今ではもう五歳になった娘はやんちゃな悪戯っ子
椅子の下海底ごっこ思わず目を輝かす

「何か彫ってあるよ母さん
 ねぇ、素敵だわ
 きっとこの椅子の名前だわ
 わたしと同じ名前なのね」
ニーナ!ニーナ!
娘は椅子をそう呼んだ

その晩椅子はいつもの窓辺
夜空は水のように澄み切っていた
誰にも聞こえない小さな音が
椅子から溢れ始めた


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