比島決戦の歌 作詞:西条八十 作曲:古関裕而
読売新聞社が軍の依頼を受けて西条と古関に依頼した。フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツとマッカーサーの名前を入れるように要望があった。しかし打ち合わせで西条がそれを断ると出席していた陸軍報道部の親泊中佐がその場で「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」と代筆してこの曲が出来上がった。1944年12月17日に発表会が行われ、同年12月26日に酒井弘、朝倉春子、日蓄合唱団によってレコーディングされた。フィリピン戦が行われている間は連日ラジオで放送していたが、現在までにレコードは1枚も発見されていない。レコードの発売予定は物資欠乏が深刻化した昭和20年3月、同時期発売のレコードも一切発見されていない所を見ると、発売されなかったようである。SP盤収集家・ハンドルネームPolyfar氏のブログ「レコード狂の詩」の2006年5月15日の項によれば、前述の「台湾沖の凱歌」以降のレコード番号に16個ほどの連番での欠番があり、その中に「比島決戦の歌」が含まれていることを指摘している(レコード番号は「台湾沖の凱歌」:100920、「比島決戦の歌」:100930)。ニッチクはその昭和20年3月頃までレコード生産を行っていたが、プレス製造機械供出で以降のレコード生産は実質停止している。
「敗戦と共に楽譜は全て廃棄された」(楽譜に関しては古関裕而記念館に展示されている他、「昭和二万日の全記録⑥太平洋戦争」(講談社)のグラビアページに楽譜とレーベル原稿の写真が掲載されていることから、少なくとも完全な「廃棄」は誤りと言える)、「西条と古関が戦犯指名される」との噂も飛び交ったが、当のマッカーサーは全く関心をもたずに何も起こらなかった。後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、許諾のため古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。尚、本作は古関の死後、戦後50周年企画として新たに吹き込まれている(この際、江口夜詩の息子で作曲家の江口浩司が編曲している)他、藍川由美、小沢昭一がその前後にレコーディングをしている。